庄川町について

 庄川地域の地で人が生活を営むようになったのは、縄文時代と言われています。地域内には、縄文時代中期(4,000~5,000年前)の遺跡として松原遺跡などがあり、石器や土器の出土品をはじめ竪穴式住居跡などの遺構が多く発見されています。

 天平時代(748年)には、越中国の国司で万葉の代表的歌人であった大伴家持が、「 雄神神社 」へ参拝されたときの模様を歌に「 雄神川くれない匂う乙女らし葦附(あしつき)とると瀬に立たすらし 」と詠むなど、当時すでに当地方に集落があったと思われます。
 中世になると、中央の文献に「越中国都波群野市金屋の鋳物師」の記録があり、これが現在の東山見地区の「 金屋 」地名のおこりとされています。

 その後、戦国時代を経て、近世中期には「 松川除 」堤防の大工事(1670~1714年)が完成し、庄川の治水が成るとともに庄川扇状地の川跡が開墾され、近世後期(1800年頃)には、庄川地域の農業の基礎が確立されました。特に「 庄川嵐 」と呼ばれる強い南風や土壌などの自然条件に恵まれた種田地区を中心に、水稲種子(種もみ)の生産が盛んに行われました。
 一方、近世初期には、加賀潘により庄川上流の五箇山や飛騨の山林の伐採が進められ、庄川の流れを利用した木材の流送(流木)に従事する者が多くなり、明治になってからは、民間事業として森林資源の開発が積極的に進められ、庄川地域は木材の一大集散地となり木材産業が発達しました。
 また、幕末の頃(1866年)、木材の豊富な庄川地域に挽物木地師が移住し、ロクロによる木工技術を伝えました。

明治初期、廃藩置県が実施されると、岩黒金屋村など複数の村が戸長役場を設けその後、明治22年、市町村制の実施により、東山見村・青島村・雄神村・種田村として発足しました。
 大正末期から昭和初期にかけて豊富な庄川の水量を利用して電源開発事業が進められ、昭和5年に当時、東洋一を誇った日本で初めての高堰堤式の「 小牧ダム 」と「 小牧発電所 」が建設され、その後、昭和16年に「 庄川合口堰堤(合口ダム) 」の完成により、電源開発の拠点や用水の要として、脚光を浴びました。
 そして、昭和27年6月1日、生活文化や歴史を同じくする四ケ村は、“観光と産業の町”をスローガンに掲げ、自主的合併を行い「 庄川町 」を誕生させ、水と遊び、水に親しむことができる「 庄川水記念公園 」の整備や庄川温泉郷を活かした観光振興等を実施してきました。
 さらに平成16年11月1日、互いに庄川で結ばれている隣接自治体「 砺波市 」と行政の効率化と行財政改革を目的に『 庄川と散居に広がる 健康フラワー都市 』をまちづくりの理念に対等合併し、「 新砺波市 」となり、現在に至ります。

庄川の特産品

庄川4地区

庄川4地区:5,488人

東山見地区:1812人
青島地区:1895人
雄神地区:742人
種田地区:1039人
(令和4年7月現在)

年代別チャート

空き家数:116軒

東山見地区:49軒
青島地区:50軒
雄神地区:11軒
種田地区:6軒